colums2001年

1月あけまして、おめでとうございます。
新世紀の朝は予報に反して東海地方にも大雪の洗礼をうけました。
御嶽も麓まですっかり白くなって、澄んだ日などわたしの町からもその華麗な姿を見ることができます。
飛騨や美濃の林道は雪で固められてしまって、わたしの乗用車で入ることはかなわずとなってしまいました。 去年は正月中は暖かったと記憶しています。 そんなわけで遠出する意欲はすっかり影をひそめ、この数週間は近郊の里山へ雪道ハイクと決めこんでいる始末です。
Mt.shoes正月恒例となった美濃加茂の雄山、納古山へはちょっぴり雪山気分を楽しませてくれる山歩きとなりました。 下麻生から北上しましたが、途中から木作谷からの道と合流するところから多くの登山者らと会い、この山の人気のほどをうかがいしれます。
walk昨年の秋訪れた多治見の浅間山奥の林道を再び歩きました。 多治見の陶器センターから雪の林道を30分ほど踏み歩けば、北に雄大な光景に会えます。林道の入口は終日、ゲートがかかっています。
walk美濃加茂の城山、猿啄城展望櫓からの御嶽も捨て難しです。 ここからはお隣の鳩吹山から継鹿尾山までの山嶺が一望でき、また歩く興味が沸きます。
walkさらに尾張三山のなかでも地味な白山を麓から訪れれば、また違った面白さが経験できます。市民プールから「市民四季の道」をたどり山頂までは一息の登りです。帰りは「ふれあいの森」を通らず、西の雑木林を下りました。 市民プールへ降りられるものと考えていましたが、結局は入鹿池の神尾集落に降りてしまいました。分岐点があろうかと思いますが、どなたかご存知でしたらお教えいただきたいです。

どうもお茶を濁すような山歩きばかりでしたが、今年も無事な山歩きができますように、暮れゆく山上の神社に手を合わせました。

(1/30)

この3月弥生に岐阜県武芸川町の里山へ登ったおり、やはりここでも首をかしげる光景に出っくわしました。
「寺尾ヶ原千本桜公園」へ初めてやってきました。広い舗装道の両脇に植えられた桜並木はそれはそれで "いとおもしろし" ですが、新しく作られようとしている森がおよそ似つかわしくない代物になろうとしている。

山肌を伐採するのはきっと意味があつてするのだろうが、トイレや休憩舎をあらたに造り、かつ森と称する場を囲うのはどうもいただけない。
察するに、行楽の季節ともなると、このあたりには幾千の観光客がやってきて、し尿やゴミの問題などでけっこう汚されるのだろう。それを防ぐために、大きなトイレをつくり、また公園の規模を広くして必要以上にあたりがよごされないようにとの計画かもしれない。
これも時代の趨勢だろう。個人のモラルに期待するほど山は寛容でなくなっている。
たずさえ「たずさえの森」と記された標柱がでんと立つこの一帯は、平成12年から整備されている。
その標柱には、ご丁寧にも、岐阜市長と地元の武芸川町長の名がにぎにぎしく書かれていた。
責任者を明確にするためにあえて刻まれたと思われるが、ここには自然にたいする畏れなど感じられない。
おとなりの説明板に明記すればよいものを、なぜこうも人は己の名を誇示するのだろう。
この森が木々で茂るときには速やかに取り除いてもらいたいものだ。

(3/19)


先日(5月26日)、名古屋市東区で開かれていた水彩画の個展に出かけました。

展望がいい鳩吹山やその界隈の風景を描き、活躍されている、HPみず画紀行-みずえきこう-の作者N氏のささやかな、かつ明るい雰囲気のある個展でした。
商店や事務室街の一角にある「ギャラリー<空>」で2週間余り開催され、作者のN氏も連日、会場に詰められたとのこと。盛況に終ったとのお知らせもあり、N氏の水彩画ファンの一人としてたいへんうれしく思いました。
わたしがそのギャラリーにお邪魔したおりも、ちょうどN氏が見えられ、しばし水彩画のことや仕事(偶然にもわたしと同業者!)のことなどを歓談させていただきました。 水彩画歴も数十年来とお聞きし、ほとんど独学で技術を習得されたこと、またこの数年、月に3枚は描くよう頑張っておられる由。好きなことといえ、その熱意には頭が垂れる想いです。
わたしも中学の低学年までは、美術の写生の時間が特に好きでした。 年に数度の写生大会では、学校の廊下に貼り出されることもしばしばでしたよ。(これは数少ない幼少のころのわたしの自慢です。)
いつごろか絵への関心が薄れ、文字や映画方面へ興味が移ってしまいましたが。 でも、いまでも本の装丁につかわれる挿絵などは大好きです。本の装丁画をみるだけで、思わず手にとらせる画家も数人います。
個人的な興味からいうと、わたしは職業画家の絵にはとんと目が向きません。 反対に、2足のわらじを履く芸術家には近親感が沸きます。 フランスの印象派の画家などにも、日曜画家から出発して、生前には特に画家として生計せずに一生を終えた芸術家もいたと記憶しています。
今のN氏がどんな画家をめざしておられるのでしょうか。
今後の活躍を期待しています。

みず画紀行-みずえきこう-のアドレスは、こちらです。
http://www.its-cc.co.jp

(6/04)


以前、山靴について書きましたので、今度はわたしが選んだリュックザックのことを書きます。
むかしはザックといえば、学校の山岳部の連中が背負う、長櫃に紐をつけたかのようなキスリングをさしていました。このキスリングとは、スイスのあるリュックザック製作者の名で、日本に伝えられてからまたたくまに広められ、山やの定番品となりました。
余談ですが、山岳家の槙有恒氏がかのキスリング氏を訪れて、日本ではこんなに多くの登山者が使っているというと、とても驚いたという逸話があります。(川口邦雄著「山の道具手帳」)
また荷物のしょい方には、世界中いろいろな格好があります。
日本では、たいていの本では肩で背負うのはもっともよいと記載されていますが、西洋では腰にのせているむきが多いそうです。これはあまり起伏の激しい山稜などを選ばない山行きが多いためなのでしょうか。そう単純な地形のところを歩き続けない場合は、重心が高過ぎると不安定になるとか。
背負い方ひとつで、荷の量をふやすことができるとは、ある山家のベテランの台詞です。 いまではザックといえば、アタックザックかバックパックが主流です。 山での用具が携帯に都合よくできたことがそのもっともな理由でしょうが、ただ横長のものを縦長にしただけだという声もきかれます。
わたしがはじめに買ったザックは、中にアルミの背フレームをいれた中型のアタックザックでした。靴とザックは長く使うものというわけで、いろいろな雑誌や本で調べ、一日または二日小屋泊まりの範囲という条件でさがしました。
いまでも変わらないでしょうが、山関係の装備品は国産より外国製のもの、とくにフランスやイタリーからの輸入品が売場を占めていました。
わたしが買ったのもイタリー製だったと記憶しています。十年ほど使っていました。もっともそのころのわたしの山行きは、勤め人の宿命ゆえ、春か夏のお盆の時期に北アルプスか八ヶ岳が主なグラウンドでした。
宮使いを止めて、個人営業でやりはじめた当初はなかなか山へゆけなくなり、40代にかかってまた山への渇望が沸き、今に至っています。
その時から、ザックといえばもっぱらデイバッグを使うようになり、アルミ箔のレスキューシート、800mlの魔法瓶、500mlの水筒、ガスストーブやちいさなやかんを入れるともう後は食料のスペースのみといったありさまです。一時、腰に背負う(?)バッグを使用しましたが、夏はいいのですが、その他のシーズンでは荷の位置がうまくとれないものか、かえって疲れてしまいます。
最近は、バッグの背負う部分に、ハニカムのクッションがついたものをずっと背負っています。山歩きにとって、背の汗は永遠の闘いでしょう。
みなさんはどんなタイプのバッグを愛用せられているのでしょうか。
わたしはここ数年、北欧製の網Tシャツを着ています。
バッグだけの問題ではなさそうです。

(6/11)


今年も御嶽山に行ってきました。
登山者でいっぱいの山頂付近を意識的に避けて、今回は前から意図していた東山麓の開田高原からの”長くてきついコース”を歩きました。ネットでも紹介の度合いが低いこのコースは、各ガイド本でもおざなりな記述が多いのですが、なんの何のたいへん変化に富んだ魅力的な登山道でした。
実際の登山口である四合目には水場もあり、苔むした幽玄なヒノキの樹林帯から尾根道にあがり、エゾマツの変種であるトウヒを見上げ、狭い谷を登るきつさも思い知らされ、そして開けたお庭風谷からながめるすばらしい景観にも恵まれ、とても信仰登山の山岳とは思えぬ登山道でした。
またこの開田コースはとても整備がうまく行き届いて、木道や木の梯子が新しいものに取替えられていた。案内標示が最小限なことも好感が持てる。地元のかたのみならず、もっと歩かれてもいい道だと思います。
ただ登山口までのアクセスが車でないと少々無理なこと。山頂の剣ヶ峰まで上がるには、朝未明から登り始めるか、一泊の余裕がないと難しい。
ロープウェイを利用すれば案外容易に思えるが、複数の車利用でないとこれも困難だろう。(御嶽ブルーラインのバスは夏のシーズンは運行していないとのこと)
ロープウェイ下駅から四合目に通づる林道は、営林署の管轄で一般者の通行は認められていない。残念である。
御嶽東や北山麓はここ数年スキー場の開発が進み、ゴンドラを使っての登山もあると聞く。道路状況なども林道とは思えぬほど整備され、行き交う車の数も増えていくだろう。これも時代の流れでしょう。

(8/20)


8月

朝晩など涼しい風が吹く時期となりました。今年の夏の暑さが嘘のように思えます。ナショナリストではありませんが、フォーシーズンを享受できることにあらためて感謝する1日です。

衣変えの季節に合わせたわけではありませんが、お盆の休みからこのHPの写真を入れ替えています。そっくり変えたわけではなく、画像の質を高めての入れ替えです。
今まで使っていた画像縮小ソフトがバージョンアップしたのを機に、今までの写真のうちピントが甘いものを取り除き、全体的にシャープな画像としました。ソフトな風景も捨てがたいですが、モニターで観るにはやはりすこしでもシャープさがあるほうがみやすいのではないかと考えています。
製作者のディスプレイは、17インチ、解像度は1280×1024です。家庭用では15インチがまだ主流でしょう。また、ラップトップパソコンでは最大でも14インチですから、解像度は1024×768が最大ではないでしょうか。
ときおり、ディスプレイの解像度を1024×768に落として、自分のHPを観て見ますが、やはりピントが甘いと画像がいまいちの様子です。画像の画素数を増せばそれも解決しそうですが、今のネット環境ではそうもいけません。
そんなわけで、写真のなかには少々小さくしたものもあります。
ブロードバンドであればそんな心配はいりませんが、ブロードバンドが主流となるには後1,2年はかかるのではないでしょうか。
わたしも今はISDN環境です。 まだ当分はこの状態が続くと考えています。
ご参考までに、わたしが使っているHP画像加工関連ソフトを列記してみました。
読者諸賢のかたで、もっといいのがあると言われんかたはどうぞ教えてください。

ペイント: DPixed,ペイント(WIN98付属)
画像加工及び変換: Gaze,縮小専科,HappyPaint98forWeb,AutoImage,DIBAS32,JTrim
その他: IconEdit

(9/2)

eiga映画「キャラバン(原題:ヒマラヤ)

インド・チベットのあいだに位置する、長さ2550km、幅220km、平均高度4800mのヒマラヤ山脈の地に住む村人の生活手段を描くこの映画はまた、かの地に息づくラマ教と厳しい大自然に従順してゆく人々の繰り返す叙事詩でもある。
ネパール北部のまた北の山地では、年に獲れる麦で村人の糊口をえるのは3ヶ月がいいところ。そのため豊富な岩塩を南の村へ運び食料と交換すのが慣わしであった。草一本も生えない荒地や急峻な崖道、そして雪原を越えてゆききする旅、キャラバンが延々と繰り返されている。

長く村のリーダーである長老の息子が帰りのキャラバンで骸となって村に戻ってくるところから映画は始まる。
後継者であったことから、キャラバンの副リーダーであるカルマにつらくあたる長老のティンレイは、まだ幼き孫のためにも次のキャラバンには自らが引率しなければならない。もう数年も旅していない老体にもかかわらず。
長老のティンレイにはもう一人息子がいた。彼は幼くしてラマ寺院にやられ、今ではラマ僧としてばかりではなく、絵師としても寺院の人であった。帰ってくるよう頼む父に、彼は言う。「わたしを僧にさせたのは父ではないか。」と。
村の若者らに先達をまかせられたカルマは、長老らの占いで決める出発の日よりも先んじてキャラバンに出た。岩塩を載せた数十頭のヤクを引きつれて。
ティンレイや老人達も数日後に村をあとにした。次の後継者となるべく孫と息子の妻を伴って。またラマ僧の息子も父の身を案じてキャラバンの一人にくわわった。
そして、二つの隊列はヒマラヤの山地を越えていく。

あらすじはあくまでも映画を製作するがためのそれである。
かれらのキャラバンはわれわれにはそれこそ生死を賭けた旅にみえようが、ヒマラヤの人には日常の一つの生活手段であり、延長でもある。
なぜかの地に生きなければいけないのかとわれわれが問うても、それは詮なきことなのだ。ヒマラヤの地を離れることは自分たちの歴史を止めることなのでもある。それは祖先が育ててきた言葉を失うことと同じだ。
世界にはその習慣・文化を容易に変えない地域がある、ということを知らされた映画だった。
<スタッフ> 監督:エリック.バリ  製作:ジャック.ペラン  撮影:エリック.ギシャール/ジャン.ポール.ミューリス  音楽:ブリューノ.グーレ  仏ネパール英スイス合作1999年
2000年フランス・セザ-ル賞 最優秀撮影賞、音楽賞
2000年アカデミ-賞 最優秀外国語映画賞ノミネ-ト

【なみの人間は、5,000メートルでは息をするのがやっとのはず。雪原のカウボーイともいうべき・・・。】
(ル・フィガロ紙)

(10/18)

yubi2000年以前はこちらです。
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