映画「キャラバン」(原題:ヒマラヤ)
ンド・チベットのあいだに位置する、長さ2550km、幅220km、平均高度4800mのヒマラヤ山脈の地に住む村人の生活手段を描くこの映画はまた、かの地に息づくラマ教と厳しい大自然に従順してゆく人々の繰り返す叙事詩でもある。
ネパール北部のまた北の山地では、年に獲れる麦で村人の糊口をえるのは3ヶ月がいいところ。そのため豊富な岩塩を南の村へ運び食料と交換すのが慣わしであった。草一本も生えない荒地や急峻な崖道、そして雪原を越えてゆききする旅、キャラバンが延々と繰り返されている。
長く村のリーダーである長老の息子が帰りのキャラバンで骸となって村に戻ってくるところから映画は始まる。 後継者であったことから、キャラバンの副リーダーであるカルマにつらくあたる長老のティンレイは、まだ幼き孫のためにも次のキャラバンには自らが引率しなければならない。もう数年も旅していない老体にもかかわらず。 長老のティンレイにはもう一人息子がいた。彼は幼くしてラマ寺院にやられ、今ではラマ僧としてばかりではなく、絵師としても寺院の人であった。帰ってくるよう頼む父に、彼は言う。「わたしを僧にさせたのは父ではないか。」と。
村の若者らに先達をまかせられたカルマは、長老らの占いで決める出発の日よりも先んじてキャラバンに出た。岩塩を載せた数十頭のヤクを引きつれて。
ティンレイや老人達も数日後に村をあとにした。次の後継者となるべく孫と息子の妻を伴って。またラマ僧の息子も父の身を案じてキャラバンの一人にくわわった。
そして、二つの隊列はヒマラヤの山地を越えていく。
あらすじはあくまでも映画を製作するがためのそれである。
かれらのキャラバンはわれわれにはそれこそ生死を賭けた旅にみえようが、ヒマラヤの人には日常の一つの生活手段であり、延長でもある。
なぜかの地に生きなければいけないのかとわれわれが問うても、それは詮なきことなのだ。ヒマラヤの地を離れることは自分たちの歴史を止めることなのでもある。それは祖先が育ててきた言葉を失うことと同じだ。
世界にはその習慣・文化を容易に変えない地域がある、ということを知らされた映画だった。
<スタッフ>
監督:エリック.バリ
製作:ジャック.ペラン
撮影:エリック.ギシャール/ジャン.ポール.ミューリス
音楽:ブリューノ.グーレ
仏ネパール英スイス合作1999年
2000年フランス・セザ-ル賞 最優秀撮影賞、音楽賞
2000年アカデミ-賞 最優秀外国語映画賞ノミネ-ト
【なみの人間は、5,000メートルでは息をするのがやっとのはず。雪原のカウボーイともいうべき・・・。】
(ル・フィガロ紙)
(10/18)
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