-11/14-

11月わたしの山靴について書きます。

今履いている山靴は3足目です。
はじめて山靴を買いに行ったのは、名古屋の栄にある「好日山荘」という山用具の老舗でした。少ない予備知識で買い求めたのは舶来品のごっつい革のそれでした。山に行くには靴が一番重要だという雑誌の受け売りで、大変丈夫そうな靴を選びましたが、それは2足目も同じで、くるぶしの上まで厚い革で仕上げていて、足のねじれなどおこそうにもおきないほどの頑丈さでした。ただその重量は並大抵のものではなかったことを記憶しています。
今考えてみると、それらは氷壁のものではなかったかと思われます。
現在では、厳冬期ではプラスチック製の山靴などもあらわれ、だいぶ様変わりしてきましたが、当時はアルプスなぞへゆく岳人のほとんどがあの重たそうな靴を履いていました。
山の雑誌に載る宣伝でも大いに推奨されていました。
今でも夏のアルプスへ出かけると、それはそれは立派な山靴で縦走なぞをされている登山者を見かけます。
体の大きなかたならまだ自分の足となっている様をみますが、年に数度の夏山登山ぐらいで工事現場でも行くような分厚い靴を履くのは拷問にかけられるかのような感がみえます。
どうもわたしたちは何かをはじめようとするとき、まず道具から凝るようです。 ゴルフしかり釣りしかり、そしてスキーでもそのことは否めないです。
昔の岳人たちのいでたちを写真でみると、じか足袋や長靴、ちょっとモダンになると普通の革靴が主流だったのではないでしょうか。
日本人ではじめてマナスルへの登頂を試みた隊の靴は、今でいうキャラバンシューズだったといいます。
今のわれわれならアルプスやヒマラヤだって行けるかもしれません。

mt_shoes3足めになってわたしが買い求めたのは、通信販売でみつけたイタリア製の軽登山靴でした。
わたしの山への行動範囲が低くなったせいもありますが、日本の山で厳冬期の一部の山をのぞいて、あの硬い山靴などは不必要ではないかと考えます。
つま先だけは固い皮製ですが、あとはすべて布製です。もう7年履きつづけています。靴底の溝もだいぶへこんできてそろそろ買い換えようと考えています。
4足目も軽登山靴に決めていますが、ちょっと値のはる柔らかい革のものをと捜していたところ、ちょうどある通信販売で低山用靴を見つけました。
ゴアテックスを採用したり、かかとへの衝撃を和らげるための工夫をされているとのこと。重量は片足480kgしかない。くるぶしの周囲までパッドでカバーされている。 アメリカの靴メーカーですが、ライセンスをとって日本の靴メーカーが生産している。
その靴で21世紀の山々をはやく歩いてみたいです。


-9/4-

1996年春、世界の天辺、エベレスト登山の歴史を塗り変える事件が起きた。
二つのパーティ、ガイドを含む12人のアマチュア登山家らは5月10日登頂に成功し、この知らせは世界中をかけまわった。

eigaエベレスト 死の彷徨」(97)は、そのパーティに参加したルポライター、ジョン・クラカウアーのドキュメント・ノベル「Into thin air(空へ)」を基にした映画だ。コロンビア・トリスターTV映画。

一人6万5000ドルのこのツアーに参加した彼らは、さまざ まな職業をもったアマチュア登山家の面々だった。 事業家、歯医者、病理学者、社交界の女性ら8人の中にはこのツアーが2度目という者もいた。日本の47歳の女性も参加していた。
エベレストはネパール政府の方針で、夏の2週間のみ登山が許されている。 その期間、世界中の登山家がふもとのベースキャンプに集まり、ここから第2、第3、第3、そして第4キャンプと登り、1日で頂点に上がらなければならない。天候が悪ければ足止めされ、疲労と薄い空気との闘いでもある。
もちろんシェルパや地元のガイドの案内、それに最新の装具やらで、かってのエベレスト登山とは比較にならないほどいまの登山は安全になっている。
もっとも裏返しにみれば、お金と時間とある程度の体力があれば多くのサポーターの力を借りて8000mのエベレストまでもがその獲物になるという。
もちろん参加する登山者はそれなりの経験を今まで積んできているはずだった。 このあたりの背景は映画の中ではあまり言及されていない。
ベースキャンプでのミーティングで、酸素ボンベの使い方が説明され、山頂に到達はPM2時をタイムリミットにすると厳命された。そして8000mでの薄い大気のなかで体の変調が細かに教えられる。

5400mでは酸素濃度は地上の2/3となり、めまい、吐き気、倦怠感に襲われ、6300mでは呼吸は4倍速くなり、そして7500m以上は、「ウェルカム・トウ・デス・ゾーン(死の世界へようこそ)」となる。

クレパスにかけられた梯子から落ちそうになったり、テントからスノーシューズのまま凍った外に出て滑り落ちていく事件も起きる。 隊員の中にかって目の手術の経験があった者が突然視覚が奪われるというアクシデントに見舞われる。
このツアーのガイドらにも各々の目論見があり、それがお互いに微妙な反目を生じさせていく。不必要な機材をガイドに運ばせた結果、極度の疲れのため頂上付近でのロープ支持に支障をきたす。
第4キャンプから最後のアタックに出かけたパーティらはその時点でもう体力の限界にさしかかっていたかもしれない。
約束の撤退時刻のPM2時になりかかってもまだ頂上をめざそうとパーティは進行を止めない。 ジョンと一人がエベレストの山頂に立ったときすでに時計の針は2時を過ぎようとしていた。 撤退のサインをだしても、アマチュア登山家らの是が非でもという意思を覆す命令は出せれない。時の魔物は刻々と彼らを覆っていこうとしている。下山こそ最大の勇気なのに。
彼らが山頂でその喜びを分け合っていたころ、エベレストは白い牙を見せ始めた。すでに時刻は4時を迎えていた。
酸素不足でベテランのガイドらにもその思考に影響が現れ始めていた。 替わりの酸素ボンベが置かれた地点で、全てのボンベが空だとわめくが、ボンベには何の異常もなく、その使い方の初歩すら間違えてしまう。 雪嵐の下山のなか、道を見失い助けを求める者ら。 わずか数百メートルの中を救助に向かおうにも、助ける者さえ疲労困ばいの呈である。キャンプに助けを求めに降りる隊員らに取り残されようとしている二人の悲痛なる叫びが夕闇の雪のなかに消えていく。

リーダーを含む5人が帰らぬ人となる。

ジョンは今でも世界中を駆け回っているが、彼はこう言って締めくくっている。
ヒマラヤだけはもう登りたくない と。


-8/23-

今年はほんとうに暑い日が続きます。
愛知県の水瓶の一つである御嶽湖の水位もだいぶ下がって、第何次節水警報が出されつづけています。

今年の御嶽登山は、20年ぶりに飛騨口から登りました。(8/23)
信仰の山からスポーツの山へと変貌していくなかで、この飛騨口の道も積年の登拝のためか、山道の多くの個所が割木を敷き詰めた状態になっています。 親子連れや中高年のグループの登山者が多く見られるのは、今の時期何処でも同じでしょう。
三ノ池で修行者のかたと出合い、わたしの昼食の傍らでお題目をあげておられていました。えい、えいと錫丈を振り上げているそばで、おにぎりをほおばっているなんて、だれかが写真を撮っていたらおもしろいスナップになっていたでしょう。

継子岳からは緑の海に浮かぶ乗鞍岳がすぐ目の前にそびえていました。
また、ここへは今年から真下の「チャオ御嶽スキー」からの登山道が整備され、ゴンドラを利用すれば2時間ほどで頂上に立つことができるようになりました。
今年の7月、地元の日和田小学校の終業式がこの山頂で行われました。
東海の各新聞にその旨が掲載されていましたので、読まれた方も多くみえるでしょう。全校児童9人職員8人の登山模様は下のアドレスで御覧いただけます。

http://www.f4.dion.ne.jp/~suzu-ken/

ところで今回の山旅でひとつ気にかかる"物"に出っくわしました。
8合目をすぎ、ハイマツも終り、砂地のトラバースで、ある墓標が立てられていました。昭和54年5月の大阪の遭難者の遺族が、その年に建てた高さ50cmほどの黒い石板をみて、ここを歩く登山者はどんな気持ちを抱くのでしょう。
手を合わせて拝むかたもみえるでしょう。
また、こんな無粋なものと舌打ちする岳人もいるでしょう。
人さまざまと言ってしまえばそれまでですが、自然のなかに個人の跡を残すのは、それがどんないきさつにあるにしろ極力避けるべきであろう。
時代を象徴する不幸な遭難は今まで多くありました。
けれど、現代ではそんな遭難なぞ存在しないと思います。 すべては個人の技術、体力の欠如、そして不運が原因であるのではないでしょうか。
山での不幸な出来事が特別であるわけなどなく、それも運命の一つであるとわたしは考えます。
遺族の方の無念さを推しはかっても、やはりあの墓標は撤去すべきもの、とおもいます。
ご意見をお待ちしています。


夏の特別増刊読み物
<ザイルの両はじ> ---エチエネ・ブリュル

広い病室内のカフェで、ぼくはインターン仲間らと休憩時の雑談に話しを咲かせていた。
友人のポールからある話し語りのうまい相手、精神科医のプレールを紹介され、ぼくがアルピニストであったことからポールは、
「興味のある話といえば、君の患者の・・・、例のザイルの一件だよ。」とポールが話をきりだしたのを機に、次の話がプレールの口からついて出てきた。
「あの話はまるっきり愉快じゃないから」
ポールやぼくの催促に、やっとプレールは話し始めた。

アルプスのとある避暑地で、一流のクライマーか、たんに山登りがすきなだけの男が、そのホテルに逗留していた可憐な少女にロマンチックな恋をしたのがはじまりだった。
山男によくあるように彼は彼女を山に連れて行こうと考えた。
彼女の両親ははじめは猛反対だったが、熱心な彼のことばとガイドがいっしょならとの条件で渋々折れた。
ところが、その時期はホテルに閉じ込められていた客がいっせいに山に登ろうとしたため多くのガイドが出払っていたので、彼のところには正式でないもぐりの年寄りしか残っていなかった。
しかたなく彼はその年寄りのガイドを彼女の両親の目にとどかないようにして、それでもでかけることにした。

初日の山小屋までは平穏だったが、次の朝、案の定、くだんの年寄りのガイドは朝から酔っ払って出発が少々延びてしまった。
さて、三人はザイルをお互いに結び合うこととなった。
普通ならば、彼女を真中にするのだが、彼はガイドを充分信頼できないものか、自分が真中になるよう言い張ってザイルを結んだ。こうすれば、娘をよりサポートできると考えたからだが。
お昼を過ぎてやっと頂上に登ったが彼らだったが、下るルートは同じ雪の斜面をくだらないで、岩場を通るつもりであった。が、老ガイドは彼に恨みを抱いていたものか、雪の斜面を下ると言い張った。
彼は反対したが、娘のてまえこれ以上言い争いは不安を抱かせると思い、しかたなく老ガイドの指示を受けることにした。

午後の雪は柔らかく、彼の不安は的中し、大斜面はなだれとなり、三人を一瞬のうちに飲み込んでしまった。

「雪崩に巻き込まれたときは、水泳のように手足をばたばた動かし、雪の表面に出るようにしろと言われているが、実際はどの程度効果があるか大いに疑問だが、何とか彼は雪崩の表面近くにいることができ、雪崩が止まったとき、彼は頭の上の雪を払いのけることができ、助かった。」

彼が雪から立ち上がったとき、自分だけがその雪の斜面にいることを知ったときの気持ちを想像することは恐ろしい。
だが気をとりなおして、仲間の、彼女の埋まったいるとおもわれる位置の手掛かりを見つけなくてはならない。
それは一本のザイルに他ならない。
彼は、腰の結び目から出ている2本のザイルのうち、彼の前、つまり斜面のしたに伸びているザイルをちゅうちょなく掘り出すことに決めた。
ザイルは15mだ。彼は死にものぐるいで雪を掻き始めた。
手放していたピッケルをさがしだし、凍える両手で雪を払いつづけた。数メートルも。
けれど、こうした努力をあざわらうかのような運命が彼を待っていた。
雪の中のザイルがカーブを描いて、上にのびていた。

「上のほうだって。」
「彼は下のザイルの先に愛する彼女がいるものだとばかり思って、懸命に雪をかいだのに。それがあの意地悪な老ガイドを助けるために今まで掘りつづけていたんだ。」

彼は冷静さを失って、今度はもう一本のザイルのほうをたぐりよせることにした。
こうして彼の雪かきは再びはじまったが、数メートルもゆかないうちに、そのザイルはゆるく下にカーブしていたんだ。いや、どこかでまたあがっているにちがいないと自分に言い聞かせて、カチカチに凍りかけた雪と格闘しつづけた。
けれど作業ははかどらず、いや本当にこのザイルの先に彼女がいるのかさえ疑うようになっていた。
もう一度気をとりなおして、彼はある考えに気がついた。
それは、ザイルの結び目を調べれば、上下の区別がわかるかもしれないことだった。
腰の結び目をまえに持って来て確かめようとしたが、2本のザイルは雪崩のおかげでごちゃごちゃになっていた。
そこでザイルを体からはずそうとしたが、雪でふくらんだザイルはとても解くことはできないことがわかった。
次に彼が試したのは、ザイルのほつれをなおそうとして、雪の中を体をくねったりしてザイルを解きほぐそうとしたことだった。
何とかザイルを解いたが、しかし事態はすすまなかった。
2本のザイルのうち、どれが彼のパートナーにつながっているかは判断できなかったからだ。

彼はあらゆる可能性、仮定を考えあきらめることなくその作業にしかも冷静に熱中していた。
もう山中は闇に包まれかかっているのに。

話の語り手であるプレールはここで口をつぐんだ。
わたしらはこの奇妙な話の結末を待っていた。
プレールは時計をみて立ち上がった。
「もうこんな時間か。患者のところに戻らなくては」
「最後まで話してもらわなくちゃ。」
「結末。・・・ハッピーエンドにはならなかったことは予想できるだろう。 どうしても知りたいのなら、ぼくの病棟までへゆくおりにはなしてあげよう。」

その娘の両親は帰宅の時間がきても帰らないので、土地のポーターやガイドに二人の捜索を頼み込むことにした。
夜中に出発した捜索隊は夜明けまでに遭難現場に着いた。
そこにはかの男がひとり、雪の上で2本のザイルをそれぞれの手に握っていた。
捜索隊が娘らの埋まったいるとおぼしきところを掘り返す作業をしていても、彼はザイルを離さず何かを真剣に調べているかのようだった。
捜索はわずかの時間ですんだ。
老ガイドは雪の塊のブロックに押しつぶされて即死の状態だった。娘は老ガイドの近くに薄い雪に覆われていただけで、どこにも傷はなかった。
つまり掘り出すのが早かったならば彼女は助かっていただろうとおもわれた。

「それで、どっちのザイルのはじにいたんだろう、彼女は。」
「これはばかげたことなんだが、・・・ガイドたちがそんなことに注意するはずがないじゃないか。つまり、その点はまったく不明なんだ。」
「で、彼は。」
「ひどい凍傷で両手の指を何本か切断したが、命には別状なかった。」
ぼくらは病棟の入り口までやったきた。
「ともかく、会ってみたいのなら・・・。」
「え、彼がここに?」
「ああ。そう思わなかったかい?」

coffee break


これは作品の大筋でありますが、なるべく訳文を引用しました。
短編集「危険なザイル・パートナー」(1950)
    エチエネ・ブリュル 近藤等訳(1977)講談社文庫刊
著者はアルピニストとしても高名で、アルプス、モン・ブラン山群の初登摩といった経歴の持ち主。
作家としてもアルプスを舞台とした数々の作品を世にだしていて、 「バリエーション・ルート」(この作品集に含む)で1950年度の山岳文学大賞を獲得したという。
近藤等氏は、アルプス登攀史の研究者でありまた訳書も多く、レビュファ「星と嵐」などが有名である。

もう23年前に訳された作品集ですが、山を熟知している作者ならではの面白いストーリーは今読んでもわたしをうならせる。
もう絶版になっていますので、大きな図書館か古本屋にしかみつからないでしょう。 講談社のかたには再版、かつ他の作品を紹介して欲しいものです。( 2000年盛夏)


-7/29 -
7月

酷暑のなか、お元気ですか。
今回は御嶽の歴史について、小勉強をしましょうか。


「御嶽(おんたけ)」は木曽の御嶽のみである。
他の地方の御嶽はすべて「ミタケ」と呼ばれる。 平安時代には「御嶽詣(ミタケモウデ)」といって、修験道が盛んに行われていた。
が近世になって木曽御嶽信仰が広まるにつれ、いつのころかふもと周辺の人々から「おのたけ」、つまり「王の御嶽(ミタケ)」と尊称されたものが「御嶽」と呼ばれるようになった。
これは、江戸時代の学者、貝原益軒がその著「木曽路の記」に
「おんたけとは木曽の御嶽なり。・・・・」
と記され、もうすでに木曽地方ではおんたけとよばれていたことは明らかである。

以上は、生駒勘七著「御嶽信仰の変遷」の冒頭に述べられています。
またこの続きには、御嶽登拝史ともいうべき一般信者と地元の修験者の末裔との軋轢なども事細かにつづられ、御嶽が修験道と民間信仰の融合によって飛躍的に全国に広まってゆく過程が説明されています。

御嶽山麓に住む郷士(木曽氏の家臣団)を中心とする道者らによっておこなわれていた集団登山に対抗するかのように、一般信者による霊峰御嶽登山という衆望が高まっていった。
ここに登場するのが、尾張国春日井群田楽村の人、覚明である。
御嶽の支配者である郷士の黒沢村御嶽神社の神官武井家に願い出たが、当然のことながらこれは彼らの既得権を犯すものなので許されなかった。
覚明はその後、代官所やら藩庁などへ嘆願するが、受け付けられず逆にその運動は迫害さえこうむっている。
しかし彼は屈せず、村民等の協力のもとに登山道の改修にあたり、その生を二の池で終えることになる。
一般信者の集団登拝にともなう地元への経済的潤いには抗えず、覚明死後周辺の村々は武井家にその利を説いた。
ついに武井家は木曽代官山村家の庇護のもとにその地位を再確認することを条件にして譲歩を余儀なくさせられ、御嶽は正式に一般登山者に開放されることになった。

一般に山といえば、富士山を思い浮かべるように、一つのいただきを持つものをいいます。
比べて、多くの険しい峰をもちそれらが一塊であるかのように見えるのが嶽であろう。代表的なのが御嶽であり、乗鞍岳、八ヶ岳である。
穂高や立山は険しい峰を持つが、ただ連なっているだけであり、穂高嶽、立山嶽とは言わない。
御嶽が他の山岳と異なるのは、その特異なる山状のみならず歴史的にも深い意味を持つがゆえなのである。

book

日本の名山11『御嶽山』博品社('98年)
を読んで


-7/5-

暑中お見舞い申し上げます。
梅雨明け近くともなるといっきに気温はうなぎ上りになり、低山歩きもつらくなります。
7月は木曾や飛騨高山の里山を歩くべき計画しています。
writeそんなおり、一通の涼しいメールが届きました。

開田高原観光案内所
長野県木曽郡開田村末川1895
http://www.cnet-kiso.ne.jp/k/kaida-pt/

ontake99

今でこそ開田村は信州の観光のメッカの一つに数えられますが、40年以上前までは日本のチベットとまでいわれ、冬に訪れようなんてことは至難のこととされていました。
今では地蔵峠には立派なトンネルが掘られ、御岳のふもとにもスキー場が数ヵ所開設されています。
そうそう、ロープーウェイが御嶽5合目付近まで取付けられてもう10年になるのではないでしょうか。
隔世の感をおぼえます。
わたしがはじめて開田村を訪れたのは高校三年の夏、級友が実家の木曽福島に帰省するさい誘われて4週間ちかく滞在したときでした。 彼に連れられてバスで旧の地蔵峠を越えたあたりから目にした開田高原の雄大さは爽快そのものでした。
数年前まで夏はきまって開田村をドライブしていましたが、温泉宿泊地や別荘、都会風なお店もあちこちに点在し、年々にぎやかになっていくのがわかります。
でも、開田村の西野や末川あたりをとおると昔のことなぞを思い出します。

94年、99年と油木登山道を歩き、百間滝やスギ、ヒノキなどの美林の景観を堪能してきました。百間滝から黒沢道5合目までは丸太の階段なども敷かれてずいぶん歩きやすくなっています。
いまでは王滝道の田の原口やロープーウェイ駅から往復するのがあたりまえとなっていますが、たまにはスギ、ヒノキなどの美林を愛でながら往時の御嶽登拝の山道を登られるのも面白いとおもいます。

walk 油木美林コース へは、黒沢登山口、中の湯行きのバスに乗り、百間滝入口で降りたところから始まります。
「不易の滝」までは遊歩道がつくられていますが、あとは昔ながらの登拝道です。百間滝小屋(半壊)まで3時間から4時間、登りっぱなしが続きますが、がんばってください。
また、中の湯から百間滝小屋までの道は稜線にあがるあたりから笹が茂って、朝などはズボンがひどく濡れますのでそのお覚悟を。
尚、小屋からストレートに8合目金剛堂まで上がれる道は、途中の石室がわからず、断念しました。逆に金剛堂からの降り口は明瞭でしたが。

清流 百間滝

-6/21-

6gatsu梅雨にはいって御嶽がなかなかおがめれなく、憂鬱な日々が続いています。
先日、小牧市教育委員会 文化振興課のN氏から下記のメールをこのHPあてにいただき、貴重なご指摘をいただきました。
それは尾張三山についてです。
わたしが自分勝手に地理的に解釈してネーミングしてしまったこの山々が実は昔からきちんと「尾張三山」と称せられていたとのことです。

----------------------------------------------------------------
min-tl028

尾張三山」ですが、これは普通、尾張富士・本宮山・白山の三山で、 古来から信仰の山として「三山がけ」、「三山参り」が行われてきた山々。 歴史的な名称と思います。

yama2国土地理院1/25,000地形図にも表記がありません。
山のガイドブックにも間違った表記が多いようなマイナーな山で 小牧市民にも十分浸透していない山です。

---------------------------------------------------------------

わたしも白山との名があることなどまったく知らなかったわけです。
いや、つい2年まえまでこの「白山」を尾張本宮山と勘違いしつづけていました。
大冷や汗ものです。
急いで訂正し、御覧なっていただいた方々にお詫びいたします。

「白山」という名の山は東海地方では四つを数えます。
能郷白山、大山白山米田白山、そしてこの尾張白山と。(太字は2000年6月までにこのライブラリーに入ってます。)
すべて白山神社を奉り、白山信仰から由来しているのだろう。
ちなみに山岳信仰でもっとも広く知れ渡っているのは御嶽神社でしょう。
次がこの白山神社、そして浅間(せんげん)神社でないでしょうか。
東北や九州の方たちから異論がはねかえってきそうですが。



-5/3-

kazamiゴールデンウィークの真っ最中にこれを書いています。
このWEBをひらいてちょうど満1年になりました。
里山歩きも40座を数えるようになって、予定の50山を越える予定です。
また、他のHP同好者からもご意見やためになる情報をお寄せいただき、インターネットの凄さをいまさらながら思い知らされた一年でした。
昨年はわたしの業界では大変な不況でしたが、自分を振り返るにはかえっていい時期だったのでないかと思います。



book

わたしの本棚の最も手に近いところに「続ぎふ百山」があります。
平成になって、正編を知り、その続編を岐阜日日新聞(現岐阜新聞)から取り寄せて以来もう十年になります。
この2冊の山本の出版を知らなければ、わたしは今も山はアルプスや八ヶ岳だけだと考えていたでしょう。
ずつと単独行の身でしたから、沢歩きや深いヤブ山をさぐっていく度胸なぞ40を過ぎた今では無し。かといって、整備された遊歩道をリュック背負って歩くのも気恥ずかしい。
この正、続編で紹介されている山々の全てに道がついているわけではないが、鉄塔の巡視路や地元の森林作業道などを利用しての山道歩きは一人歩きには格好であった。
それなりの危うさも経験したが、全体的には安心して登れる山域だった。
10年の間には、それまで藪道や谷をつめてしかたどり着けない山も、細いながらも道がつけられ、容易に山頂まで登れたという山も少なくありません。
これも地元の愛好家や森林組合の方等のボランティアの努力に他ならないでしょう。
もっとも役所の観光課や土木課の為せる遊歩道の設置は止めにしていただきたいが。
これからも今まで行けなかった山々にそれなりの体力を要して歩けれたらと考えています。



歩く

最近、面白いWEBサイト「山のはなし」を見つけました。
近畿、美濃地方の山々の紀行や歴史、地形などを紹介しています。
アドレスは、http://www1.odn.ne.jp/matsunari/Mwm/ です。


-2/12-


walk先日、東白川の山を歩いたとき地元の森林組合のかたに出会った。
ちょうど町境の峠であったので、区域の目印でもつけられていたのか土曜日にもかかわらずやぶの中をまわってみえた。
そのおり地元ならではの面白い行事を聞きました。

「この東白川村には1,000m級の山が6つあります。地元の小学校では生徒達が全校登山で毎年1つずつそれらの山に登ります。」
また、登山道の整備や道標の設置を6人がグループを組んでボランティアで管理しているとのこと。

nyuuzan林業を営む村ならではの事業ではあるが、都会から楽しみのために山歩きを求めるわたしには、それらの奉仕活動に頭が下がる思いです。
東白川村では、6つの山を紹介した"登山マップ"も作っている。
近隣の村や町でもそのような登山地図を作成されているとも聞きました。
東白川村を流れる白川は渓流釣りも盛んだが、山歩きは地元からみれば何も還元されなく、むしろ生活の糧に入ってこられるし、ゴミや火の危険も考えられる。勝手に植林などの地域を歩き回られるのも迷惑だろう。
これらの登山道を整備されるのも自衛のゆえかもしれないと決めつけるのは、少々うがちすぎるかもしれないが。
(里山を写真紹介するこのWebサイトの作者としては、このあたりが微妙なところです。)

登山と山歩きは同じジャンルですが、最近、この二つにはどこか性格が異なるものがあると考えるようになりました。
これがアルプスや観光登山と違う点ではないでしょうか
わたしはそう思います。


-1/14-

moti2000年も無事に迎えて、まずはおめでとうございます。
この山の記録帖もこの20世紀最後までには50山をむかえることになるでしょう。

今年はどうやら暖冬とほぼ決まり、低山徘徊派としてはうれしいかぎりです。
kuruma僕の小型乗用車(84年ゴルフ)では雪道なぞ走れそうもないので、良天気が続けば飛騨や美濃の奥まで山を探せそうです。
僕は特に自然派を自認しているわけではないが、咋近の都市近郊の低山の山道改良にはちょっと頭をかしげざるを得ないです。
多くの人に自然を満喫してもらおうとの意図はわからないわけではないが、すべての人に何の用意もさせず、遊歩道なるものをつくって歩いてもらおうなんて、少々むしが良すぎるとおもいます。
山頂に不似合いな休憩舎を設けたり、鞍部を切り開いてベンチなぞを置くなど、浪費を通り越して山の汚染につながるのではないかと危ぶみます。
林業用の作業道や鉄塔の巡視路などで充分、近郊の山は利用されています。
そのうえさらに、村の活性化とやらのお題目で遊歩道なぞをあらたにつくるのは山の破壊につながるのではないだろうか。
今でも、遊歩道をつくれば、安全のためにまわりの林やがけをくずしてその人工の荒荒しさを見せつけているところも見かけます。
ひと一人歩くだけの道があればいいのです
も少し、里山を静かに見守り、だいじに育てていく必要があると考えます。 なにしろ、ひとが山にわけ入っていくことすらおこがましいことだから。

yamaこの1月はじめての山行きに、岐阜の金華山を歩いてきました。
大晦日の夜に、1:25,000岐阜北部の地形図をながめていて、町がどんどん山を侵食していっている感をおぼえ、代表的な山、金華山は今どうなっているのかとの不安が頭をよぎりました。
ここは山頂付近はいざしらず、あたりの稜線ぞいの道はとても自然に整備されていて、特筆すべき近郊の山だと思います。
この山がずっと変わらぬことを祈りつつ、歩いてみました。


inserted by FC2 system