COLUMNS尾張の大男だいたぼっち-『東海の民話・語り継ぐ68話』より
                              2009 /12/23-
だいだらぼっち、でいだらぼうなどと呼ばれる大男伝説は山造りや沼・湖造りの起こりとつながっている向きがある。
峠を抜ける旅人を驚かしたり、関東甲信越地方に伝わる富士山を土で盛って造ったというのが有名です。東海地方では某CMで海辺に近い山に住む「でいだらぼう」が海に竿を幾本もさして海苔をつくっている人形アニメでもしられています。
そのお話のスケールの大きさで群を抜く東海のだいだらぼつち伝をひとつ紹介します。
むかし、なかなか子供がさずからない百姓夫婦があるときいつものように畑仕事していると、にわかに空が黒くなりついですごいいなびかりとともに雷の子が落ちてきた。
百姓がそのいたずらに怒ってこらしめんとすると、その雷の子は、「どうか助けてください。そのかわりあなたのお願いをかなえてあげますから。」というのでした。そこで百姓夫婦が、「子供が欲しいのじゃ。」と頼むと、雷の子はその願いを承知し、さらに「クスノキの桶を作り、一日一回、竹の葉を二枚入れて湯浴みさせなさい。」と言い置きもとの雲の上へ帰っていった。
しばらくしてこの百姓夫婦に男の子が生まれ、雷の子の言うとおり竹の葉を二枚入れた産湯に入れたところ、たちまち大きくなった。初めのうちはこの言い置きを守っていたが、早く大きくしたい親の気持から一日に幾度も湯浴みさせるのでした。
子はどんどん大きくなり親をも越す背丈となり大人もかなわぬ力持ちになっていった。川の流れを変えてしまった大岩を取り除くことなど朝めし前だった。
夫婦はもっと大きくなれと言わんばかりに、竹の葉をたっぷり入れ何度も湯浴みさせたうちにとうとう見あげんばかりな大男になってしまった。村のひとらはその子をだいたぼっちと呼ぶようになった。
ぼっちが歩くと地面が震えるや、走れば大風が吹き家々を揺るがすで、とうとうぼつちは村に居られなくなりひとり伊吹山ふもとに住むようになった。でも時おり村びとが困ったときは手を貸すように里を見守っていました。
あるとき村びとらが大声で騒んでいるのを耳にし里へ下りてみると、ずっと遠く東の国で大地から火柱が立ち上がり村びとらが逃げ回っているのを目にするや、これはたいへんというので、ぼっちは近江の土を両手でかきとりもっこに入れるや急いで東の国へ走った。火を消そうと幾度ももっこで土を運び大地の火へかぶせるのでした。
やっと火がおさまったときそこは高い山になっていた。こうしてできたのが富士山です。土をえぐられたくぼみに雨がたまったのは琵琶湖で、もっこをかついで走ったおり手をついたところが浜名湖、そしてもっこからこぼれた土の塊が小牧山だったとさ。

     *

これは、小島勝彦編「東海の民話・語り継ぐ68話」(中日新聞本社・昭和57年刊)の巻頭に載っている一話です。現在、絶版になっていますから興味がおありなかたは図書館でどうぞ。










COLUMNS長者の里、猿後家地蔵にまつわる伝説 - 2009 /10/16 -

猿後家地蔵岩
猿後家地蔵の岩洞
揖斐川町長者の里キャンプ場から
15分、詳しくは貝月山を参照。
キャンプ場内染織工房アトリエのの」に姥捨ての岩穴の民話等が載った小誌があります。見学自由です。
長者平の猿後家ばあさん
むかし長者孫兵衛に美しい娘あり、その評判を聞きし山の大猿が娘をよこせと申しこんだ。ことわれば大猿は村に危害を及ぼすとおそれた娘は長者の里びとのために猿の嫁になることを承知する。やさしい娘は父に嫁入道具にと「銀のかんざしと大きな水がめを買ってください」と願いしところ孫兵衛は娘の頼みをかなえ家財さらえ京都までかんざしを買い求めてきた。
約束の日、娘は迎えにきた大猿に大がめを背負わせ晴れ着に着飾り銀のかんざしをさし大猿の後から山へと入っていった。そして少将渕にさしかかると娘は猿に気づかれぬよう銀のかんざしをその渕に投げ入れ叫んだ。
「あれ、かんざしを落としてしもうた。ひろってくだされ。」あわてた猿は水がめを背負っているのを忘れそのままかんざしめがけて渕へ飛びこんだ。するとあっというまにかめに水が流れ込み大猿はそのまま渕の底へと沈んでいった。山の大猿がいなくなり娘は長者の里では猿後家と呼ばれた。・・
               岐阜県地名文化語る会発表者  藤原清由

猿後家地蔵の案内板の説明をはしょつて書きました。尚、説明には以下のような後日談が続いていました。
猿後家さんは里で男の子を産みます。また猿後家さんは知恵者で幾多の災難から村を救ったが、老いて山奥に捨てられてしまいます。その後、長者の里に疫病がはやり村びとはあの猿後家の知恵を借りに山奥の岩穴へむかうと、かっての老婆の姿はなく三段の滝をかけ上がるような若々しい者に生まれ変わっていた。山のイモやアナゴを食べ若返ったという後家のことばにより村の疫病をやりすごし里はむかしのように平穏を取り戻したという。
後半は姥捨て民話の変形ですね。前半が猿後家ばあさんの民話ならではの機知にとんだお話ならば、後半は知恵者としてのおばあさんを敬うおはなしとなっています。わたしが勝手に分けて記述した意味をわかっていただけたら幸いです。

COLUMNS大日ヶ岳桧峠ルートの花々 - 2009 /9/5 -

大日ヶ岳桧峠ルートは展望と花々を愛でる尾根道です。
山麓に設備の良いスキー場ができ峠へのアクセスもしごく容易になったおかげで、訪れる登山者は年々増すばかりです。かって桧峠を越え石徹白へむかう人々は生活者のみでしたが、村にスキー場や民宿ができ今では一年中にぎわう村に変貌している。
その石徹白へはじめてはいったのは今から四半世紀以上まえの秋でした。上在所の白山中居神社から白山禅定道を歩き、大杉をみて神鳩避難小屋で一泊し、翌日一日かけて白山室堂まで走りました。天候も上々だったこともありすばらしい山歩きを経験させていただいた。続けて翌年も同じ道を訪れたのだからよほどその印象が強かっただろう。(現在は上在所から大杉登山口へは立派な舗装道が伸び、紅葉の時期ともなれば東海地方のみならず関西からも多くのハイカーが押し寄せている。)
いま石徹白はむかしの面影は薄くなり、しゃれたペンション風建物も建ち田舎暮らしを求める人も移り住むという。冬でもよほどのことがない限り村が隔絶することがなくなったのは喜ぶべきことだろう。
祠
walk桧峠から大日ヶ岳トレッキングは往復6時間から7時間かかります。ウイングヒルズのゴンドラを利用すれば早い人なら4時間ほどで帰ってこられます。(ゴンドラは土日のみ営業)美濃白鳥駅から石徹白上在所まで平日及び土曜に自主バスが走っていますが、運行時間帯が地元生活者に限られているようで山歩きに利用する人はまあ皆無でしょうか。
左は峠から少し入ったさきに鎮座する祠です。
下は大日ヶ岳山頂付近からみた桧峠ルートです。09年大日ヶ岳東縦走路を参照。

桧峠ルート
大日ヶ岳桧峠ルートの花々たちのスライドは、こちらをご覧ください。
特に鎌ヶ峰から水後山へかけて多く花々を見かけました。花の名は宿題としました。(^^;


COLUMNS2009年、HPが誕生して満10年となりました - 2009 /4/30 -

HPをはじめて10年過ぎました。もうという感と長かったという相反する思いが同居しているのが正直な感想です。この10年で訪れた山は270を越しました。同じ山を違えた道、季節で幾度も登ったこともあるので山行きはおそらく290回近いでしょう。
10年前と比べると登山のHPが多くなりさらにその形態がプログへと移行しつつあります。読み手がすぐ感想をのべれ書き手も返事できることが最大の魅力でしょうか。それとスタイルのシンプルさがいいですね。
わたしのHPの内容も年とともだいぶ変わってきました。
まず第一にあげられるのは写真の質です。はじめのころ使用していたデジカメは57万画素のそれでした。それが2年もたたないうちに画素数が1Mピクセルとなり2Mピクセル、そしていまは5Mピクセルのデジカメで撮っています。4年前と比べても飛躍的に画質が向上しました。現在のデジカメの主流は10Mピクセルですが、ネットで配信するには圧縮してサイズを小さくするので7Mピクセルぐらいがわたしには適当です。ただアップできる画像の容量が1ファイルにつき500KBなんていう時代がきています。光ファイバーのネット環境ではもうそれがあたりまえとなりつつあります。
つぎにわたしのHPの内容を大きく変えたのはわたしの登山、山歩きのスタンスです。数年前まで山歩きする日となれば車を使うことが当たり前となっていました。車登山ほど便利でかつ簡便な山歩きはないでしょう。どんな近い里山でもハンドルを握らずに訪れることはなかった。車登山で一番気を使うのは落し噺ではないですが往復の運転でした。それがあるきっかけで車登山に疑問を持ち、それから極力公共の交通アクセスに頼ることにしています。このあたりのことは前のコラムで書きましたので、興味があるかたはのぞいてください。(「山のコラム2007年」参照)

さて近々このHPを引越しすることになりました。
15年近く付き合ってきたプロバイダーとわかれ別のプロバイダーへと変えることに決めました。それによりHPの無料容量が大幅に減じいままでどうり記述することができなくなります。
HPを半減し新しい登行を載せるたび古い記録を削除することも考えましたが、苦心して作った記録を消すのが残念におもい別の方法をとります。
それは無料HPのサービスを受けることです。
いま無料HPを使っているかたも多くみられます。無料HPの一番の欠点はその無料が突然変更になることです。それとHPにあらわれる広告の問題です。前者はしかたがないとして、広告がそれも人を不快にさせるような宣伝を訪れてくださるかたに見せるのはなんとしても避けたいです。(ローンや金融関係の会社、それといたずらに射幸心をあおるようなサイトなどを個人のサイトで見せられるのは不快で、再び訪れることを躊躇してしまいます)なんとか最小の広告で済ますようなサービスをと探しています。
最近では無料HPサービスの容量が格段に増加し大きな画像も載せることが可能となりました。画像縮小ソフトで悩むことが少なくなります。うれしいかぎりです。それにより昔の記録の画像を少しきれいに直し取り替えることにします。
ついで内容ですが、再び同じ山を訪れるさい、電車バスでの登山となりますが、そのさい以前の車登山の登行記録は削除する所存です。例外はあるでしょうが、なるべく電車バスでの登山を優先としわたしのHPで電車とバスのアイコンが増すように努めます。難しいですが里山を愛する岳人としてのわたしの矜持、プリンシプルです。(ちょつと気負いすぎかな!(^^;)
どこまで山行きの記録が進むのかわかりませんが、どうぞ永くご愛読ください。
ゴールデンウィーク中の自宅にて、明るい空をにらみながら


yubi山のコラム目次です。
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