「えてものとは何です。」
「なんだかわかりません。まあ、早くいうと、そこに一羽の鴨があるいてる。それを捕ろうすると、鴨めは人をじらすようについと逃げる。こっちは焦ってまた追って行く。それが他のものには何も見えないので、猟師は空を追って行くんです。ほかの者が大きい声で、それはえてものだぞ、気をつけろと呶鳴ってやると、猟師もはじめて気がつくんです。それですから木曽の山奥へはいる猟師はけして一人で行きません。こんなこともあったそうです。 山奥へはいった二人の猟師が、谷川の水を汲んで飯をたいて、もう蒸れた時分だろうと思って、ひとりが釜の蓋をあけると釜のなかから女の大きい首がぬっと出たんです。あわてて釜の蓋をして、しっかり押さえながら、えてものだ、早くぶっ払えと呶鳴りますと、連れの猟師はすぐに鉄砲を取ってどこあてともなく二、三発つづけ撃ちに撃ちました。それから蓋をあけると、女の首はもう見えませんでした。・・・」
木曽御嶽山にのぼる黒沢口からさらに奥の杣小屋に、六つの男の児と二人きりで暮らす重兵衛は、信州の山宿に泊まりあわせたわたしたちにこんなはなしを切り出した。
「お父さん、怖いよう。」
山奥に年中暮らしているので何の恐れも抱かない児が今日にかぎってふるえている。児が指す向こうの森奥からなんだか唄うような悲しい声が聞こえている。
「あれは里へ帰るきこりか猟師が唄ってるんだ。」とわが子をさとしても小さな児は小屋の隅へ引っ込んでしまっている。わが子を励ますために焚き火の枝をとって外へくりだすと、外には二十四五ぐらいの若い男が立っていた。山中で道に迷ったのか火のある家を見つけてやってきたと思われた。薄茶の中折帽をかぶり縞の洋服、短いズボンに脚絆草鞋といういでたちの男は、重兵衛のといに
「福島のほうから御嶽を越して飛騨の方へ・・・。」と答えた。 重兵衛の誘いに小屋へ入った男は隅に小さくなったままの児を見つけ、山越しするのに腹が減るといけないと思い、買い込んだ食い物をその子供に差し出した。竹の包みの中には蝦巻きのすしがたくさんはいっていた。
「おい、こんないいものを下すったぞ。こっちへきてお礼をいえ。」
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