−12月31日
 この年の瀬にパソコンのOSをWin10にアップグレードした。来月14日以降、Win7のアップデートの更新及びサポートが成されないためです。今までアップグレードを伸び伸びになっていたわけは、Win7で使っていたソフトが使えなくなる恐れがあったからです。
 私の仕事でのソフトはOSが変わっても使えましたが、HP制作のそれはXP以来のソフトがほとんどでアップグレード後の変化が気になっていた。この12月はじめに中古のラップトップパソコンを購入した。そのパソコンでHP制作のソフトをインストールすることができたのを機にメインパソコンをWin10アップグレードしたというわけです。
 メインパソコンはディスクトップで32ビットです。Win10は64ビットが主流ですし、ディスクトップも×64ベースプロセッサですので、64ビットでセットアップしたつもりでしたが、インストールエラーが出ていろいろ修正を加え一日がかりでやっとインストール完了までこぎつけました。がPCのプロパティのシステムの種類をみてみると、32ビットのままでした。どうやらアップグレードする前にBIOSの修正をする必要がありそうでした。クリーンインストールするつもりでしたがアップグレードにおさえられてしまったようです。ま、このさきメモリーを増加するつもりはないのでこのまま32ビットで良しとします。
 わたしのHP制作ソフト(HTML制作、画像閲覧、画像加工、等)は今だにXPのときのソフトです。HPを立ち上げてもう20年にもなりますが進歩がありません。もっともページのパターンはここ10年以上変化なしですから不便は感じません。デジカメも1600万画素タイプで標準品です。今年はぜひ2000万画素のデジカメを買いたいです。(笑い)わたしは落ちついて撮るタイプでなく行動しながら撮るので一眼レフのような重いカメラを持つことはしません。そう言えばわたしが今持っているカメラのカシオがデジカメ業界から退却するらしいです。撮るだけならスマホでも充分でしょう。
 先程も書きましたが、HPを立ち上げて20年過ぎました。これからはいつHPを終えてもいいつもりで山旅を楽しむ所存です。−大晦日の午後、自室でキーボードをたたいています。



−12月11日
 晩秋、犬山城を訪れた。
 木曽川の岸壁と白壁の美しさに白帝城とも呼ばれています。その城郭の入口と内部の塗装工事が行われていた。それでふと思い出した。名古屋城の本丸天守閣整備工事の件です。
 木造復元に方針が決まったことは喜ばしいことですが、その折エレベーターを設置を要望する声があがった。障害者からの要求でしたがどうやらそれはかなわなかったもようです。これも現実的でしょうし、わたしも不要と存じます。
 犬山城の天守閣をへ上がったかたならうなずかれるでしょう。あの階段は角度といい巾の狭さといい極めて歴史的だと云えます。幼児や足腰の弱い高齢者ではとても自力では最層階まで上れないでしょう。それでいいのです、どうしても上りたければおぶさるか背負わされて上るしかないのです。それも近親者やボランティアのかたに頼めばいいのです。それらができなければ余人にたのめばいい、むろん自費で。こればかりは望む人におもねることはないのです。
 太いつるつるとした手すりにつかまりながらつらつら考えた、戦国の昔はその手すりさえなかっただろう・・。



−11月22日
昭和はもっと遠くに・・。
昭和46年新憲法の交付にともない「象徴天皇」になった(施行は47年)天皇が日本の安全保障といった政治的な問題にかかわらないと戦後教育を受けた我々はそう教えられた。が実際はどうだっただろうか。
マッカーサーとの11回もの会見で昭和天皇は内外の情勢とともに変節とも云えるような意見を述べている。米軍の駐留においても昭和天皇は期限を付けての撤退は主張せず、いやむしろ長く駐留を望んでいたとも聞く。ソ連や共産中国の日本への影響の懸念、皇族らの戦争責任、ひいてや天皇制への廃止の不安さえ抱いている。
わけても昭和天皇の「沖縄メッセージ」には驚かざるをえない。日本本土の国体維持、つまり天皇保持のため沖縄に長きにわたり米軍の駐留を望んでいたと云う。昭和54年にこの「天皇メッセージ」を伝えた文書が発見、公開されたが、その当時私も含めて日本を揺るがすようなアクションは起きなかった。多くのひとは、何を今さらと思ったのでしょうか。あの帽子をふるしぐさにだまされたのでしょうか。(もちろんこれらのことにはいろいろな議論があるということを付け加えておきます。メッセージの原文解釈や当時の米担当者らの思惑もあって真実は藪のなかです。もちろん宮内庁は「メッセージの存在さえ事実としてない」という。)
どちらにしても責任を取らず長きにわたり昭和を生きたのは事実です。
※「沖縄メッセージ」とは戦後から2年後、天皇の側近からGHQ外交局長へ伝えたとされる天皇の意向の文書、1979年にアメリカ国立公文書館でその文書が見つかった。



−11月18日
若い頃からつねに疑問におぼえたこと。
なぜ、昭和天皇は戦後まもなく退位しなかったのか?
太平洋戦争開始の決定について、12月1日の御前会議において天皇は、「閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云わなかった」と述べている。(「昭和天皇独白録」1990年)
御前会議により意思決定がなされたのであり、いかには軍部が戦争を遂行したといえども天皇も戦争の決定及び敗戦の責務を負うべきだろう。敗戦後、連合国最高責任者、マッカーサーとの会見が、1945年9月27日から1951年(昭和26年)4月までじつに11回ものなされていたが、はじめの会見で天皇は極東軍事裁判、いわゆる東京裁判で追訴されない旨がマッカーサーより示された。東京裁判は1946年(昭和21年)5月から始まった。これ以降昭和天皇は国民に対してもアジアの人々に対しても具体的な詫びを示さなかった。
具体的とは、つまり退位である。戦後始めには退位をほのめかす意思もあったと聞くが上記の会見後は全く聞かれなくなった。なぜだろう。一言で云えば、昭和天皇は万世一系を至上第一に考えていて国民はそれにつづくものだと示唆していたと思う。退位する時期は常にあったと思う。昭和21年から29年にかけて全国を巡幸されたが、それが終えた時に退位の意志をすべきだったと考えます。それがなされなかったゆえ、今だに近隣アジア諸国の若いかたから、当時の日本の最高責任者はあの戦争において責任をとらなかったと非難され続けている。



−11月13日
いごこちの悪さをおぼえるこの数日・・
日本国民に、日本が戦争を終えた日がいつかとを尋ねたら多くのひとは8月15日と答えるでしょう。それは正しいとと言えるし正しくないとも言えます。
8月15日が戦争終結の日と考えるているの日本人だけですが、その戦争相手国はそれぞれです。まずよく知られていますが旧ソ連はその時点でも日本への攻撃を止めていません。日本が連合国と降伏調印した日は、1945年9月2日です。東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリー号上で降伏調印しました。アメリカは当然、その日をVデー(対日戦勝記念日)として完全に終結宣言しました。
旧ソ連も連合国でしたから9月2日を対日戦勝記念日としていますが、北方領土問題を抱えて未だに平和条約は結ばれていない。でも戦争が継続しているとは誰も思っていません。
お隣の中国はどうでしょう。当時の中国を代表する政府は蒋介石総統の下にある国民党政府でした。当然、9月2日を抗日戦争勝利記念日としています。ただ中国はすぐ内戦の時代となり共産党による中華人民共和国が成立しても戦争終結の宣言がなされず、1970年代になってアメリカと中国の国交回復を受け、1972年の日中国交共同声明によって戦争状態が終わったとされました。



−10月24日
南信州南木曽駅から木曽川右岸の道を歩いた。
中津川駅でもそうでしたが南木曽駅でも訪れる外国人の数が半端でない。中山道馬籠宿と妻籠宿がお目当てでしょうが、これほど外国人が訪れるのは異様が感じがする。何がそれほどあちらの方を惹きつけるか、聞いてみたい。もっともほとんどの方が壮年期を過ぎた人たちばかりですので想像はつきますが・・。でもストックを片手に軽めのリュックを背負う姿はなかなかの予備知識がおありのご様子です。夕刻じ、わたしの山旅の到着駅、野尻駅でもホーム待合室でビール片手にご満悦の外国人のグループがみえました。日本人のガイドに引率されたグループも駅に待たせたタクシーで今日のお宿へ向かわれた。この大桑村あたりでは、庭園が美しく木曽三大寺の中で最古刹の定勝寺、マリア地蔵がある天長院、木曽の清水寺とも呼ばれる岩出観音、古代神楽踊りの白山神社等など、そして静かな須原宿、でも木曽中山道では比較的マイナーな地域です。いったい外国ではどんなふうに紹介されてているのだろうかと気になりました



−10月7日
3ヶ月ぶりに森歩き、中秋の湿地へ訪れた。湿地巡りはそちらをみて、途中の電車での気づいたことをひとつ。社内でのアナウンスの言語が増えた。従来の英語に加えて中国語やお隣の韓国語、スペイン語ふうなものも耳にする。来年のオリンピックのせいもあるだろうが主要な駅の前後で駅名や乗換えの説明のしゃべっている。賑やかである。
日本は電車内での放送が丁寧であるとはよく知られている。裏を返せばいささか過剰ぎみである。長距離列車での車内放送ならいざ知らず、コミューター列車でも到着時間やら数分の遅れ、途中の停車する駅の案内など、そして世相のせいでもあるが、車内での危険物の有無の発見、犯罪の注意の喚起、年配者や妊婦への席の譲りなどなど。数年前から運転手や車掌の名前も告知する。最近は自動放送も加わる。外国の車内放送は実にそっけなく、言葉も注意を知らせる略語風だと聞く。良し悪しはとにかく、このぶんでは短い駅間では喋りまくり続けるなんてことになるやかも。もっともわたしも自分の降りる駅の名が呼ばれると安心するのが本音ですが・・。



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