−9月12日
友達は、真に値する友は少なくて当然だろう。友達付き合いの多さを誇っても何にもならない。「走れメロス」を持ちださなくても本当の友だと言えるのは何人だろう。
けれど読書や映画などの知識・情報は多いほどよい、たとえそれらが雑な知識であろうとも。老年になってど忘れすることもあろうが、少なくとも全く忘れることもなく、頭のキャパシティさえ保たれれば一生自分のものになる。それはだいたい幼年時代から青年時代に培われる。その内容は個人の好みにより分かれるが、さらに各自の経済的環境にも左右される。
中学時代までが幼年だといえば卒業をもって青年へと突入する。その折、家庭の環境、特に貧富の違いによりそれ以降の人生に大きな違いが生じてくる。親との軋轢、社会の不公平さへの不満や怒り、満たされない環境で育ったものほどそれらの振幅は大きい。逆に言えば、何の生活の不満もおぼえず、その門をくぐればある意味からいえばとてもしあわせだ。
「大人はわかってくれない」なんて文言はかれらには必要ないだろう。知識・情報は貧しいものにとって生きる拠り所となり、また生きる武器にもなります。 リプリーやラスコーリニコフのように、社会に益しないものへの怒り、抹殺をおぼえるのはしごく当然であり、青年時にそんなことを考えないのはよほどおめでたいものか、金銭的に恵まれたものだけだろう。それらに打ち克つには知識による想像だけが武器になると思います。



−9月11日
中学2年の頃、国語の授業開始前に5分間スピーチを行った。何でもいいから皆の前で話をするあれである。話しの後、他の生徒からの感想や先生の寸評があるが、わたしはその時、この映画のことを話しました。簡単な内容と感想が主でしたが、まとまりのないダラ話しのせいか、終えたのが十分をはるかに超えていました。
かすかに憶えているのは、A・ドロン扮するトム・リプリーが友人デッキー(扮するはモリース・ロネ「死刑台のエレベーターの主役)への妬みと嫉妬から相手を洋上で殺し、彼になりすまし財産を乗っ取るというくだりをつかえつつ喋ったことです。友人のケタ外れた財産家の息子、イタリアで好き勝手な生活ができる裕福なわがまま成年、しかも魅力的な恋人もあり、それに引き替え、トムは貧乏手前の境遇。二度目の殺人をくぐり抜け恋人を奪い、順風満帆のトムに思わぬ衝撃的落とし穴が待ち受ける。ラストは原作とは全く違う。(原題は「才人・Mrリプリー」)
スピーチでこのくだりをどう話したのかは憶えていない。国語の先生はわたしの話しをかなり別解釈して意見をのべられたことは脳裏にあります。他の生徒らからはスピーチの時間オーバーにブーブーと不満をもらしていたことも。わたしは人前で話するのが不得手ですが、好きなことをしゃべるときは人が違ったようになります、幼年のころから。(笑い)
映画は勧善懲悪を通します。(※リメイクされた1999年作の「リプリー」では原作により近い)後年、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ時、このトム・リプリーのことが思い浮かびました。ラスコーリニコフは罪の許しを得ようとしますが、原作のトムは何処までも我を通し生きます。



−9月2日
中学時代に一番印象が強かった映画は「太陽がいっぱい」(仏 1960年ルネ・クレマン監督)です。封切後、数年立って一宮の映画館で観た。当時映画館はたいてい二本同時放映立てでした。同じ主演俳優の「地下室のメロディー」(仏 1963年アンリ・ヴェルヌイユ監督)の封切後しばらくしして田舎の映画館にかけられたのでしょう。「太陽は・・」はカラーで後の「地下室・・」はモノクロでした。どちらもスリラー映画です。
「太陽は・・」期せずして殺人を犯し、殺した相手になりすまし財を乗っとり、「地下室・・」では初老の犯罪者と組んでカジノから現金強奪を目論む顛末が大まかなストーリーです。どちらも失敗するのは同じです。
ともに原作がありますが、「太陽は・・」(1955年 パトリシア・ハイスミス)の原作は「才人・リプリー」との題でその後数冊シリーズ化されています。これは彼女の第三作目で一作目が A・ヒッチコックにより映画化された「見知らぬ乗客」、取替え殺人の古典的作品です。ついで「キャロル」という普通作品が書かれたが、出版当時ペンネームで発表されています。(※後年邦訳されとき、これが同じ作者かと思われるほど衝撃を受けた、彼女の心情が吐露した傑作)
彼女の作品は数十本映画化されていますが、それほど製作者や監督に惹かれるものがあるのでしょう。「地下室・・」の方はアメリカのクライム作家のもので後年読んだ時、映画のノベライズのような代物でした。



−9月1日
映画体験をお話します。幼年時代はTVの国産ヒーローものやアメリカのTV映画をよく見ていた。そのころ町内の映画館にもっぱら時代劇や東宝の怪獣映画、東映のアニメ映画がかけられていた。小遣いで観れるのは3,4ケ月に一回ぐらいで、それでも映画館の入口脇のボードに貼られていた映画写真を食い入るようにながめていた。 余談になるがその頃の東映制作アニメ映画は人の手間暇を十分かけたなめらかな動きで、今のTVアニメ作品とはてんで比較にはなりません。これは国産初のTVアニメを制作した手塚氏が製作期間を短くするためコマを少なくし、紙芝居もどきな代物に変えたことが大きな要因だったと聞く。当時アメリカTVのアニメ映画と比べてもよくわかります。(※「トムとジェリー」など)
中学に入りお隣の名古屋の映画館へ行けれるようになると、もっぱら外国映画がお気に入りとなった。初めてみたのが正月興行のスパイ映画007ものでした。「サンダーボール作戦」だと記憶している。駅前の劇場メトロは後ろの立ち見でも幸運なほうで一番前の土間で寝転んで見上げている観客もいた。(作品は当時として半分も理解できず、地元の映画館で前、前前作品を観てすっかりのめり込んでしまった)SF映画、冒険映画、スリラーものがほとんどでしたが、名古屋へ行けれるのは数ヶ月に一度ですから作品の数は知れたものでした。
高校は名古屋でしたから映画館に行くには都合がよく駅前はおろか当時の映画館街の納屋橋へは歩いて出かけたものです。自分の本意ではいった高校ではないので勉強は赤点(?)をもらう手前でやめ、テスト期間だともっぱら映画館通いがつづき、映画がはじまるまで待合室で次のテストの準備のため教科書を開いていた。映画館は、往年の名画とか安く観られる旧映画に限られる名画館でした、当時は三百円以内だったと薄く憶えている。わたしにとってそこでの映画体験は『黄金の日々』のようでした。特に欧羅巴映画が主で、英、仏、伊映画の戦前、戦後の主な名作はこの時期に観た。後年、ビデオでそれらの作品を再、再度観て作品内容にずいぶん受け取り方が違ったと微笑んでいる。



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