−8月31日
漱石47歳の作品「行人」は内容がサッパリわからず。近代知識人の苦悩を描くとは職業文芸評論家の言。(題名を、こうじんと読むのか、ぎょうじんと読むのか)パス。
そして漱石晩年の最大作「こころ」。小説は上・中・下の3つの章で構成されている。
上「先生と私」では、鎌倉の海岸であそぶ主人公が、ある墓地でよく墓参する男性と知りあう。その男性を「先生」と呼び、かの自宅までうかがい慕うようになる。先生には妻があるが何を職にしているかわからない。(漱石の小説はいつもこんな風です)奥さんと話しいているうちに、あのお墓参りの墓石の主のことが気にかかる。先生にたずねても、そのうちにというばかり。小説として漱石にしては出だしはいい。小説とは少なからずミステリー、謎を浮かばせるのが定石だから。
中「両親と私」では郷里へ帰った主人公の両親のこと、卒業後の就職のことが書かれるが、相変わらず内容に乏しい。漱石作品の小説らしくない欠点だろう。就職口を先生に頼もうとさえ依頼する。そしてその先生からの手紙が来る。
下「先生と遺書」はその先生の長い手紙が主です。先生の両親の財産がどうとかこうとか、学生時に下宿していた未亡人宅のお嬢さんとの馴れ合いの顛末。先生の友人Kとのお嬢さんをめぐってのゆるい確執。そして抜け駆けの如く未亡人へお嬢さんとの結婚を申しこむ。(でも恋愛競争というものは先んずるのが相手の女性とっても嬉しいものだ)それを聞かされたKは自殺する。それも嫌味がごとく自室で。遺書には先生を責めるようなことは書いてないけれど、ここは先生にはつらいところだ。先生は結婚申込みを友への裏切りと見ているようだけど、なんかおかしいね。またKもこれ見よがしに自殺するなんて手前勝手だね。そのあげく先生は数年の後悔を胸に自死する。(かなりはしょりましたが、細かい誤りがあったらごめんなさい)
今の奥さんからみれば、自分を愛してくれる男を選んだだけだのに、男どもは理屈つけて次々とおっ死んでしまう。高校時にこれを読まされ、裏切りとか罪、贖罪などと言われても、反感を持つばかりでした、わたしは。その痛みを理解するほどその内容に共感できないし、自殺を想像するほど”非凡”でなかったわたしは漱石読書体験はここでエンドとしました。わたしにはもっと他の世界への読書体験が待っていたから。
今回「道草」は半分も読めず放り投げました。漱石絶筆作品「明暗」は興味がわきません。
ものの評判を六角形で表す六つ目の角に、好き嫌い、趣味の項目があるが、わたしにとって漱石は、「猫」「坊っちゃん」「草枕」あとは随筆風掌編をよめば事足れたりと結論めき一応閉めます。暑い夏も終わりました。


−8月30日
漱石の小説に登場する三人のヒロインを考えた。「草枕」那美、「虞美人草」甲野 藤尾、「三四郎」里見 美禰子。
「草枕」の那美は元夫の経済的破綻により実家の旧家に出戻った娘、郷里ではあまり芳しくない噂が飛び交うが彼女の慄然とした振舞いに主人公の画工も立ちろぐこともある。そんな女の所作を画工は生活信条と芸術論にかんがみて非人情と感ずる。貶めているのではなくむしろ称賛に近い感情です。元夫との遠い別れを前に浮かぶ憐れさ(ものの哀れでなく)、気の毒に思う表情は、不人情ではなく血の通ったそれに他ならない。(1906年作-明治39年、40歳)
-もう少し詳しくは、8月29日参照-
「虞美人草」の甲野 藤尾は男勝りな気の強い女性です。自分に思いを寄せる男、二人を天秤にかけて楽しんで(?)いるような女性、ちょうどフランス小説に登場する気位が高く、自分がリードしていく恋愛を信条とする女性です。小説では二人の男から拒絶の目にであい、今で言う強度なヒステリーに襲われ突然死んでしまう。小説としては二流な作品でしょう。漱石の男の目が伺えます。(1907年作)
「三四郎」の里見 美禰子は上の二人とは違い、あまりはっきりした性格が表現されていない。ただ大学入学仕立ての田舎での三四郎を瞠目させる若く美貌な女性としか詳しくはわからない。彼女との付き合いも終始、美禰子の後を追うばかり。有名な(?)美禰子の三四郎へのつぶやき、「stray sheep」には若いときならいざ知らず、今では笑ってしまう。彼女への恋慕も美禰子の突然な婚約で水の泡と化す。もちろん「三四郎」は恋愛小説ではなく青年の成長小説と読むべきでしょうが、肩透かしをくらう並みの作品か。(1908年作)


−8月29日
漱石のつづきです。(順序が後先になりましたが)「草枕」は不思議な小説です。「坊っちゃん」と同じ時期にかかれているという意味においても。
ある旅の画工が九州温泉宿の旧家に数日間逗留するあいだ、そこの出戻り娘、那美との交流とその顛末が描かれる。顛末といっても女との惚れたはれたを描くわけでもなく、時にはドキッとさせるようなお互いの宙ぶらりんな言葉のやりとりや身のふりで茶を濁している。この那美という女性は当時としては進歩的、アクティブな行動をします。有名な冒頭の一章のあと茶店のおばあさんとの話しより、嫁いだ先の旦那の会社が日露戦争後の不景気で潰れてしまい、実家に戻っていると聞かされる。「ハムレット」のオフェーリアの死を重ね合わせる乙女の身投げ伝説やら馬子らの噂ばなしでも不幸な感じが響いてこない。「非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない」と言いつつ画工はその宿へ赴く。
那美という女性はどことなくファム・ファタール(運命の女)を思わせる。悪女ではないが元の夫や主人公の画工をソワソワさせる。風呂場のシーン、床屋での噂話、寺の和尚との画談話などなど。那美の絵を書きたいが、いっこうに筆をとることができないでいる。
やがて那美の従兄弟が兵役のため満州へ旅立つとき、見送りの停車場で那美の元夫も同じ列車に乗っていることを知る。前の日に満州へ出稼ぎにゆく元夫に財布を渡していた。見送る那美の呆然とした表情に「憐れ」を感じ、「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と放つ画工だった。
漱石はこの「草枕」を書くにあたり、読者が唯一の感じを覚えさえすればよく、プロットもなければ事件も起きないと述べている。けれどわたしにはこの中編小説がきちんとプロットの筋が通っていると考えます。後年の長編作と比べても勝るとも劣らず、いやむしろ小説らしさから言えば、この「草枕」はそれら以上と思います。
冒頭の一章がこの小説の言わんとすることを述べていて「起」でもあり、旅途中の茶店の場面が「承」で登場人物がきちんと説明され、ヒロイン那美のミステリアスさが読者の気を引きます。「転」は宿のこと那美のこと、画談義もつづきます。そして「結」は停車場での別れ、見送る那美の表情に画工が合点する。その表情が何であるかはわからない。これが不思議小説の所以です。漱石の小説で数度の読みに耐えるのはこれが一番でしょう。


−8月28日
老年になって「三四郎」を再読し高校の時読んだおりとはまったく違う読後感に終わった、いや「三四郎」ばかりでなく「それから」「門」もつまらなく思えた。四十を過ぎた作家としては幼稚でないかとさえ。
小説の三四郎はとにかく己の意見など無い。田舎の裕福な家から東京の大学へ入るところから始まる。当時のわたしからみればすごく恵まれたボンボンでした。いや三四郎ばかりでなく出てくる人皆、生活感の無い、それが妙に羨ましく覚えたのが正直なところでした。お金がなくなれば郷里へ電報でも打てば送ってもらえる三四郎、当時の大学生とはこんなもんだつたでしょう。漱石も同じ境遇だったのでは。もっとも漱石は江江戸っ子でしたが。
だいたい明治の大学生は旧士族か旧華族、もしくは裕福な家からの子息で成績良きものなれば官費で留学し帰国し官職につくのが定まり。漱石は卒業後、高等学校の英語教師に就き紆余曲折のあと文部省により英国留学を命じられる。漱石にはシェークスピアの読後の跡はあるが少し前の大衆作家、ディケンズには興味がなかったらしい。漱石の小説には波乱万丈を彷彿させるようなものは皆無。もっともドイツ作家のホフマンのものは読んだのでは。漱石の『吾輩は猫である』はホフマンの『牡猫ムルの人生観』(1820)からいくらかヒントを得たらしい。
「三四郎」の続きともいえる「それから」は、主人公の代助は三十になっても郷里からの援助で下男付きの貸家に住み、自力で生活しようとはいささかも思わず、むしろ友のあくせくする就職活動さえ貶そうとする。おしまいは家からの援助が途絶え、職をさがすため世間で出るところで終える。友の妻のかっての恋人(?)との恋愛問題はこの際どうでもいいのである。
「門」では役人の職に就いた宗助はあいもかわらずぐたぐたと妻との二人生活をしている。あれやこれやで神経衰弱気味になった宗助は同僚の紹介で鎌倉の寺で十日間の座禅修養を行うが、もちろん悟りなぞ得ることもなく寺を出てまた以前の生活へと戻る。どうのこうのといっても平凡な生活が一番なんだと達観する。これにはそうでしょうとうなずく他なく読み終える。


−8月26日
この春から明治の文学小説を再読、初読している。文語調から口語調へと移り変わり、小説という名のジャンルが出てきたのが明治以降の文学だと思います。(文語調で言えば、思うなり。)
明治の代表的な小説家を列挙すれば以下の三人を数えたい。なお順列は意味無し。
 夏目漱石(夏目金之助)1867年2月9日−1916年12月9日
 森鴎外(森林太郎)1862年2月17日−1922年7月8日
 樋口一葉(樋口夏子)1872年5月2日−1896年11月23日

漱石は筆で生活ができた初めての近代作家です。「坊っちゃん」は職業作家になる以前の作品ですが、どんな本読みのかたでも一度や二度は読む作品です。それまでの滑稽、痛快本の流れを汲み、わかりやすい文章で馴染みやすく読後感が抜群に爽やかだ。その勢いから「草枕」、「三四郎」と進むがその後から読者は分かれてくる。素直に発表順に読み続けるかと思えば、興味をなくす読者も多々いる。わたしは後者でした。高校のときに国語の授業に「こころ」のプリントをまわされ、内容に閉口した。他人の自殺の話など当時の自分の生活感覚からして読み解く気にもならなかった。(どうして国語の教師は「こころ」が好きなのだろう?)そのころ読んだ外国小説の「変身」「罪と罰」にものすごい衝撃を受けたのも一因でしたが、それはまた別のはなし。
昨年、漱石初めての長編作「吾輩は猫である」を二日で初読し腹を抱えて笑った。ハナから終いまで落語調で余裕シャクシャクなお話は、現代ならユーモア作家のそれ以上でしょうか。
漱石は四十代近くになって本格的に物書きに勤しんだ。けれどと言おうか、だからか漱石先生は上記二作いこう作風をガラリと変え、襟を正してか生真面目な作品に打ちこむ。


−8月22日
来年の東京オリンピックの最大の懸念。それはこの暑さでしょう。
1964年の東京オリンピックの開催は10月10日から24日でした。実に良い日和でした。
今回の開催地に選出された経緯はネットでググれるでしょう。開催日となると諸説がありますが、一番の理由は米テレビ局の希望からだという。「夏季五輪が10月開催となると、単純にその価値が薄れる。その時期にはすでにさまざまなスポーツ大会の契約が存在するからだ」米テレビ局元CBSスポーツ社長某の話し。JOC(日本オリンピック委員会)も「晴れる日が多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と立候補ファイルに謳っている。(8月のどこが温暖なのか?)
1967年以降、夏季五輪は7、8月に開催されている。そう言えば五輪にに巨額の金がかかると言われたのと時期が合う。ここにもお金がどっさりと舞っている。
わたしは1984年ロサンゼルスオリンピックで柔道決勝、日本の山下とエジプトのラシュワンとの試合を見終わったときからオリンピックへの興味をほとんど失せた。来年は涼しいところへ2.3日行こうかともう夢想しています。


−8月21日
ただいま就職氷河期だそうです。大学卒が就職難だとマスコミが喧伝する常套句です。
なぜ大学卒が常に俎上にあげられるのだろうか。この国では「大学を出たけれど・・」とは昔からの口吻です。大学を出れば良い職業(この良いとは収入が多い)、上級(?)公務員に就することができると固く信じられてきました。(今はだいぶ様相が違ってきましたが。)数カ所の希望会社に入社できなかったり、就いてもたちまち転職し何のキャリアも無いのにそれまでと同じような待遇を求めて職を探そうとする。
中卒や高卒から実社会に入る彼らは否応もなく初めての職に甘んじなければならない。もちろん天職と感ずれば幸いですが、残念にも肌や待遇に不満だと職をやめなければならない。彼らはまたはじめからやり直しです。実社会に対応する訓練、修練期間が短いからです。
でも大学卒は違う。少なくとも四年という遊び、猶予期間(モラトリアムと言い換えてもいい)があった。それでも彼らを就職氷河期の被害者だと言い得るのだろうか。


−8月18日
「もはや戦後ではない」1956年度の『経済白書』の序文
日本の中の米軍基地の多さを地図でみると、これではお隣の大国らから自主独立の国とは見られないだろう。全国各地に130か所もの米軍基地があり、米軍専用基地は81か所、他は自衛隊との共用とのこと。戦後占領下にひきつづき米軍基地を国内に存続させる協定、安保条約を結んだ結果です。いくら日本が防衛とは言ってもアメリカ・ファーストで戦火になることも十分考えられる。アメリカ国民の良心を信じるのは日本側で、他国からみれば脅威に見えるのはあたりまえ。安保条約の破棄か大幅な改定でもしなければ基地問題、領土問題は進まないだろう。
戦後はここから始まったのであり、(戦争は負けたけど)けして戦後は終わっていない。


−8月17日
平和(Peace)(名詞)国際関係について、二つの戦争の時期の間に介在するだましあいの時期を指して言う。『悪魔の辞典』A・ピアス
太平洋戦争に負けすでに73年過ぎようとしています。日本が他国との戦争のない期間がこんなに長く続いているのは努力の賜物か、それとも幸運のなせるわざか、後世になってみないとわからないかもしれません。人口の九割がたあの戦争の経験もしくは記憶が薄れているのが今です。景気・消費税・年金・社会福祉が国民の一番の関心であるのは喜ぶべきことか。他国との武力による諍いに比べれば、いがみあいの喧嘩もかわいいものだ。
幼年のころ遊び相手との喧嘩したあとの決り文句、「おまえの母ちゃん、でべそ。」おたがい言った後の爽快感と襲ってくるきまり悪さ。
人間の世界はそう変わっていない証拠だろう。


−8月13日
つれづれなるままにあんなことこんなことを書きしるしていこうと思います。
8月15日がお盆であり終戦記念日(敗戦日)ですが、これは偶然であり、因果関係はありません。
もともとお盆は旧暦7月15日でしたが、明治以降、旧暦から新暦に移ったため今の8月15日になったとのこと。いっぽうは終戦記念日は、日本がポツダム宣言を受諾し国民に知らせた日です。ちなみに終戦記念日を制定(閣議決定)したのは昭和57(1982)年です。昭和20年(1945年)に戦争が終わったのでずいぶん後のことですね。


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