尾北自然歩道-その5 -歴史のみち岩倉街道 富士塚(お亀塚)と久昌寺-

富士塚古墳 五条川のサクラが満開となりました。そんな陽気に誘われるように岩倉街道をほんの少し歩きます。(※岩倉街道とは信長の時代に犬山と名古屋を結ぶ通商路としてでき、一般には枇杷島と江南の小折(こおり)までを称し、以降は犬山街道または柳街道とも云われています。)
 名鉄犬山線布袋駅駅から東へ700m進み車道が南北に走る道が岩倉街道です。南下しすぐコブのような小さな高台を左に見ます。富士塚古墳と称される五世紀末の前方後円墳です。でもお亀塚と代々云われてきました。小山の上に1m有余の六角の石碑を載せた亀型の台石がのっかかっています。石碑には、この地に生した生駒家の当主が初代からの由緒と武功を書き表し刻まれています。それより100年ほど前の1584年小牧・長久手の戦いまえに、家康がこの富士塚に上り秀吉の陣形を見渡したと云われていますが、確かに五条川の桜並木をまえに小牧山がしっかりと見てとれます。尾張名所図会にも掲載され行きかう旅人が珍しげに碑文を見上げています。
 ついでちょっと西にもどり久昌寺を訪れます。そのまえに生駒氏の氏神である瀧神社による。社殿前の小さな池は雨乞いの雨壺として、龍が暴れ天に昇り雨を降らせたと伝承が残っている。嫩桂山(どんけいざん)久昌寺は生駒氏の菩提寺として近年広く知られるようになった。三代当主の娘お類が織田信長の室、吉乃の方となり、信長との間に三男女(信雄、信勝、五徳)をもうけたことが一因でもあります。病没後、久昌寺と改名された。法名は久庵桂昌大禅定尼。なお吉乃の方とは後世の文書の造語であって実名でないとのこと。
 寺本堂西に生駒氏歴代当主と室の墓地があります。特に久庵桂昌大禅定尼、初代・二代、三代、四代、五代の墓石が目を引く。徳川幕府尾張藩士から明治政府・名古屋藩の権大参事(今の知事)に至っている。
 寺前の神明社の見事な桜をながめ、岩倉街道を離れ五条川沿いの尾北自然歩道へ足を向けます。ここから岩倉・五条川のソメイヨシノの桜並木を愛でつつ帰路につきます。この桜郡もすでに五十年から桜の平均寿命である六十年を迎えようとしています。この先どうなるのだろう。自宅に帰るまで二度のベンチでのうたた寝に誘われた暖かい午後の日でした。




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658KB(2015/3.31 快晴)

walk犬山線布袋駅から自宅まで5.5km
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