'12 松平郷・六所山 -『松平(徳川)氏発祥の地』松平郷から原生林が残る山へ -

 秋の松平郷を再訪した。五年前に東の六所山、焙烙山を登ったおり帰りにこの里へ車をまわし、紅葉盛りの松平東照宮から秋空に白壁が映える松平氏菩提寺の高月院まわりを散策した。そしてこの里から六所山へ自然歩道が整備されてあると知りました。
 今回は豊田市が運行している「とよたおいでんバス」(※)に乗ります。今の時期同じ停留所から出る香嵐渓へのバスは紅葉見物の客で席が埋まるほどですが、こちらは生活路線のバスゆえ乗客は知れたもの。松平郷バス停で降り、五分も歩けば徳川家の礎となった松平家の里に入ります。
すでに満杯となった駐車場をすぎ児童らの写生大会が行なわれているなか、松平郷の秋模様見物は下山後とし、まず展望テラスへ向います。
 徳川家始祖松平平太郎左衛門親氏(ちかうじ)の立像を左に落葉の小道を上がってゆく。林道松平坂上線を渡った先に展望テラスが建っています。豊田市街から名古屋方面を望め猿投山も少し見えました。
午前も遅いバスに乗ったがゆえ展望もそこそこにし『松平観光自然歩道』の道標を見て六所山へ、つぎの道標で左へ原生林コースをとれば六所神社参道登山道との分岐まで一本道だそうです。(マウンテンバイク乗入れ禁止看板有り)
 ところが何を思ってかかの道標を半ば無視し山道を直進しふたたび林道に出てしまった。この林道、六所菅堂線(平成四年度整備)を自然歩道東の林道と勘違いしさらに奥の山道を上がってゆくと鉄塔が建つ頂に出た。さらに進むと巨大な観音像があらわれ何やらモーターバイクのけたたましい音が聞こえてきた。後でわかったのですが、ここは根引山妙楽寺の境内で墓地も広がりバイクのトライアル場も備わっているようです。地図には表記されていません。
六所神社舞台
六所山(611m) 六所神社の舞台まえから
石道標<コ−スタイム >歩行時間:3時間35分
shoes松平郷バス停→(10分)松平東照宮→(15分)展望テラス→(10分)林道六所菅堂線→(50分)六所神社参道分岐→(25分)六所山(標高611m) →(25分) いのししコース登山口→(15分)六所神社舞台→(50分)高月院→(10分)松平東照宮→(5分)松平郷バス停
左は「松平郷自然歩道」石道標
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 六所菅堂林道まで急いで戻り展望テラスの道標へ戻るのもしゃくなので、行く手に六所山と無線塔が見えたのも手伝ってこのまま林道を進むことに。途中民家でお尋ねするとこの地は旧東加茂群下山村槇ヶ田和といわれ、六所神社への道が上がっていることも教えていただいた。某石材商店の前の十字路を北へ上がり、石切り場をすぎさらに登りつめると六所神社参道にぶつかります。
 石の道標(←松平郷 ↑原生林 →六所山頂)が立ち松平郷からの道と合流し、林のなかを進み六所神社、奥殿、雑木に囲まれた山頂に到達。
予定よりかなり時間をとってしまったゆえすぐ下山する。石の道標から昼尚暗い表参道の六所原生林のなかを旅館六所苑まで一気に下ります。下山口近くに小さな滝があります。『いのししコース』
麓の六所神社舞台(豊田市指定民俗有形文化財)まえのカエデやモミジをカメラに撮り、宮口川に架けられた地蔵堂橋を渡り、簡易舗装された車の往来がない山道を松平郷へと急ぐ。この道は王滝渓谷奥の天下峰への道でもある。
 つぎの石の道標(←天下峰 →松平郷)までくれば松平郷へは間近です。イノシシ除けの柵がつづく間道をへて、民家が並ぶ車道から高月院へのうかい路(看板有)を左にはいり、民家の畑に出れば高月院の屋根が見えます。上品なお寺の境内にも紅のモミジが輝いていた。
 「冠木門」「室町塀」と園地をめぐり、八幡宮と称した松平家の屋敷神であった東照宮に戻ったころ日もだいぶ陰り、汗をかいた背が冷たく感じた。帰りのバスを待ち受けるべく、紅く染まった山里を名残り惜しげに後にした。


  • 展望テラスから -クリックして拡大
 < 交通アクセス >
電車(往復共) 名鉄岩倉駅←→地下鉄豊田市駅(75分) 片道運賃:1000円
note(往) 豊田市駅AM11:00→松平郷AM11:25 
(返) 松平郷PM16:18→豊田市駅PM16:50
  片道運賃:500円
※バスは平日・休日共、PM17時台まであります
yubi2007年六所山・焙烙山登山
記録『松平郷は、豊田市街から東に10km、国道301号線沿いの山村にあります。徳川300年の礎となった松平八代の歴史は、ここから始まります。
松平郷の開拓領主は、後宇多天皇(在位1274〜1287年)に仕えた公家の在原信盛といい、現八幡神社に本屋式を構えたと伝えられています。後にこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信盛の子信重末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称し、ここに徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏(不詳〜1394年4月24日没)が誕生した。近隣7ヶ村を手中にし松平家の勢力拡大をもくろんだ親氏から弟康親、その子信広、三代目信光と続き、三代目の代に岡崎・安城に勢力を広げ西三河の戦国大名の名をはせた。
そして七代目清康が岡崎に居城を移し三河一国を支配することになった。その後相次ぐ謀反をへて岡崎城は駿河の今川義元の手中に入りましたが、その時、松平八代目広忠の子竹千代(当時8歳)、後の家康(いえやす)は尾張織田家の元にありました。』(松平郷パンフレットから抜粋)

- 11月17日 2012年

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